徳川園について

徳川園の歴史

空撮

徳川園は、徳川御三家筆頭である、尾張藩二代藩主光友が、元禄8年(1695年)に自らの造営による隠居所である大曽根屋敷に移り住んだことを起源としています。

当時の敷地は約13万坪(約44ha)の広大さで、庭園内の泉水には16挺立の舟を浮かべたと言われています。光友の没後、この地は尾張藩家老職の成瀬、石河、渡邊三家に譲られましたが、明治22年(1889年)からは尾張徳川家の邸宅となりました。

昭和6年(1931年)、十九代当主義親から邸宅と庭園の寄付を受けた名古屋市は整備改修を行い、翌年「徳川園」が公開されました。昭和20年(1945年)に大空襲により園内の大部分を焼失した後は一般的な公園として利用されてきましたが、平成16年秋に日本庭園としてリニューアルしました。

徳川園の概要

龍仙湖

徳川園(2.3ha・約7,000坪)は、池泉回遊式の日本庭園で、江戸時代の主だった大名庭園もこの様式です。清流が滝から渓谷を下り海に見立てた池へと流れるありさまは、日本の自然景観を象徴的に凝縮しています。

高低差の大きな地形や既存の樹林をそのまま利用し、その中に武家社会の豪快さを象徴するような巨石を用いた岩組みが配置されています。新緑や紅葉、牡丹や花菖蒲の花々も四季を通じてお楽しみいただけます。

徳川園名所名称について

大曽根の瀧

「徳川園の地は尾張徳川家第二代光友が拓いて別荘を営んだ地であった。光友の諡號は瑞龍院と言う。尾張徳川家の大曽根別邸とその地を名古屋市に寄付した第十九代義親はマレーで虎狩りを行ったのが因となって『虎狩りの殿様』『虎狩りの侯爵』と呼ばれ有名になった。龍と虎とは古代中国より霊獣として我が国に伝えられたことは言うまでもなく、かつ徳川園に所縁深い光友・義親の二人の縁に結んで名付ける。」
尾張徳川家第二十一代当主 徳川義宣氏より

登録有形文化財について

平成26年10月7日に登録有形文化財に下記のものが認定されました。

登録文化財の名称等

種別 名称・所在地 員数 所有者・住所
工作物 徳川園黒門、塀、釣瓶井戸
名古屋市東区徳川町1001
3件 名古屋市愛知県名古屋市中区三の丸3-1-1
建築物 徳川園脇長屋
名古屋市東区徳川町1001
1件 名古屋市愛知県名古屋市中区三の丸3-1-1
建築物 蘇山荘
名古屋市東区徳川町1001
1件 名古屋市愛知県名古屋市中区三の丸3-1-1

徳川園黒門(とくがわえんくろもん)

登録理由 徳川園の西に開く黒塗りの木割の太い薬医門。旧尾張徳川家大曽根邸の表門として風格のある趣を持つ。
(登録基準:国土の歴史的景観に寄与しているもの)
徳川園黒門(とくがわえんくろもん)

概要:木造、瓦葺、間口3.6m、潜戸付、建設年代 明治32年(1899)徳川園の西に開く黒塗りの旧尾張徳川家大曽根邸の表門で、木割の太い強固な趣を持つ薬医門※1である。屋根は切妻造の本瓦葺で軒は二軒(ふたのき)※2疎(まばら)垂木(たるき)※3とし、鬼板獅子口※4棟瓦積で破風の拝みを猪の目懸魚(げぎょ)※5で飾る。獅子口や降棟(くだりむね)※6・隅巴・軒巴は三つ葉葵紋の瓦とし、留蓋※7に亀をのせている。妻側は男梁の両脇に大瓶束を立て、その上に虹梁(こうりょう)を載せ大瓶束が棟木を受ける。装飾は極めて謙虚で、繰形や絵様はつけておらず寺院の総門とは異なる豪壮な大名屋敷の様相を見せている。

  1. 薬医門:2本の本柱の背後に控柱を立て切妻屋根をかけた門。屋根の棟が本柱寄りとなる。
  2. 二軒:軒を支える垂木が上下二段からなっている軒。
  3. 疎垂木:間隔をまばらに並べた垂木。
  4. 獅子口: 屋根の棟飾りのひとつで棟の両端に置く瓦のこと。
  5. 猪の目懸魚:ハート形のくり抜きが付いた懸魚のこと。
  6. 降棟: 大棟から、屋根の流れに沿い、軒先に向かって降ろした棟。
  7. 留蓋:屋根末端の部分を覆う瓦のこと。雨漏りを防ぐための構造物。装飾的な要素も持つ。

脇長屋(わきながや)

登録理由 黒門に隣接する入母屋造の建物。黒門や塀と連続して旧尾張徳川家大曽根邸の面影を残す。
(登録基準:国土の歴史的景観に寄与しているもの)
脇長屋(わきながや)

概要:木造平屋建、瓦葺、建築面積127㎡、建築年代 明治33年頃/昭和7年(1932)・平成16年改修
黒門の南側に位置する。桁行19.6m、梁間6.6mで入母屋造、桟瓦葺、鬼板棟瓦積で軒巴には六葉葵紋を見せる。妻壁を木連(きつれ)格子※8とする。西面は連続する塀に合わせ、腰を下見板張、上部を白漆喰塗りとし、左右に武者窓※9を付けている。なお、北西角にも一段低い武者窓を付ける。

  1. 木連格子:妻飾りのひとつ。格子の内側に板を張ったもの。狐格子ともいう。
  2. 武者窓:天守、櫓または大名屋敷の武家長屋などに用いられた太い竪格子の窓。

塀(へい)

登録理由 徳川園の外周に位置する木造の塀。創建時の姿を示し、周辺建物の歴史的景観を整えている。
(登録基準:国土の歴史的景観に寄与しているもの)
塀(へい)

概要:木造、瓦葺、総延長84m、潜戸付、建築年代 明治33年頃/平成16年改修
黒門脇の塀は桟瓦葺、下見板張である。黒門の両袖につき、黒門の正面向かって右側には通用門を付け、左側は徳川園内にある蘇山荘の西入口まで伸びている。西北傾斜地の塀は、桟瓦葺、縦板下見板張であり、階段状に3間幅で設置している。

釣瓶井戸(つるべいど)

登録理由 石造の井戸で木造切妻杉皮葺の屋形を持つ。塀と同様に周辺建物の歴史的景観を整えている。
(登録基準:国土の歴史的景観に寄与しているもの)
釣瓶井戸(つるべいど)

概要:石造、面積1.6㎡、屋形付、建築年代 明治33年頃
釣瓶井戸は、脇長屋の東側に位置する。井桁は1.95m角の花崗岩製である。釣瓶の高さは2.4mで、その支柱や腕木はなぐり仕上げとなっている。屋根は切妻で杉皮葺である。

蘇山荘(そざんそう)

登録理由 徳川園の北西に位置する。伝統的な和風建築の様式をとりながらも中廊下や階高の高い和風の座敷などを採用する近代和風建築の好例。
(登録基準:造形の規範となっているもの)
蘇山荘(そざんそう)

概要:木造平屋建、瓦葺、建築面積147㎡、建設年代 昭和12年(1937)/昭和12年移築・平成16年改築
昭和12年に名古屋市は「名古屋汎太平洋平和博覧会」を開催し、その迎賓館として会場内に「和館」が建てられた。この和館は、閉会後名古屋市に寄贈され、徳川園に移築されたのが蘇山荘である。蘇山荘は木造平屋建、桟瓦葺で入母屋造であるが一部寄棟造とする。コの字型の平面構成で、かつての車寄せが突出しており、玄関から広間へ広い廊下が廻っている。現在の平面構成は広間2室、次の間、玄関、個室、待合、パントリーとなっており、かつての使用方法と変わっている部屋もあるが、部屋の形状はかつての姿をとどめている。また、玄関の構え、玄関破風の懸魚、床飾り、付書院※10、襖などは、従来の和室の手法を取りながらも、ガラス戸の採用、中廊下の設定、和室の座敷であるが階高を高くとり洋家具を意識した応接間などが見られることは、江戸期の邸宅とは異なる近代的な和風建築(近代和風建築※11)の特徴を見ることができる。主要材料は木曽檜で、かつての車寄せ部分の柱は心去材※12で檜の無地物※13、座敷廻りの柱も同様の無地物、縁廻りの柱は心持材、玄関腰板は檜の節板を使用し木曽檜の良質材を表した仕様となっている。なお、この建物は昭和22年(1947)から平成8年まで、名古屋市の公営結婚式場として使用され、平成16年からは喫茶室として活用されている。

  1. 付書院:書院の一種で、床の間脇の縁側に張り出した棚で、下を地袋などとし前に明かり障子を立てたもの。
  2. 近代和風建築:明治時代以降の日本で見られた、日本風の意匠を踏まえた建築様式。
  3. 心去材:樹芯をはずした材を指し、芯を中心に挽いた芯持ち材に比べて割れにくい。また大径木でないと芯去り材が取れないので高価である。
  4. 無地物:製材品で、その材の表面に節が無いもの。

アンケート結果

令和5年度の8月と11月に531人アンケートを行いました。
ご協力していただきありがとうございました。
今後の運営の参考にさせて頂きます。
集計結果は「令和5年度徳川園アンケート結果」(PDF形式:441 KB)をご覧ください。

過去のアンケート結果